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2012.05.28

マレーシア (3-7)マラッカ旧市街その2(オランダ広場~コタ通り)

チャイナタウンをざっと歩き、1時間ほど前にバスターミナルからの市内バスで到着したオランダ広場(Dutch Square)へ戻ってきた。真ん中には時計塔が立っており、その周囲をムラカ・キリスト教会(Christ Church Melaka)やスタダイス(Stadthuys)といったシンボリックな建築物が取り囲む、マラッカ旧市街の中心である。

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《西側から見たオランダ広場。右の建物がスタダイス》

広場の名前の通り、ムラカ・キリスト教会とスタダイスはオランダ統治時代に造られた建物。ムラカ・キリスト教会の方は1753年完成とのことなので築250年以上になるが、真っ赤っ赤に塗られているためか歴史の重みを全く感じさせず、安っぽい印象である。それは同じカラーに塗られたスタダイスや時計塔にも当てはまる。

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《ムラカ・キリスト教会》

オランダ広場はトライショーの溜まり場になっており、しばらくこの広場で休憩していたところ、観光客を乗せて到着したタクシーに「おっ、来た」と狙いを定めて寄っていくトライショー乗りが。かくいう私も1時間前にコレに捕まったわけだが、あのおじいちゃんの姿は残念ながらもうここには無かった。まぁ、居たら居たで少々面倒なことになっていたかもしれないが。

スタダイスは元オランダ総督の住居。中は歴史・民族博物館になっているが、私はタイはともかくマラッカおよびマレーシアの歴史なぞには大して興味が無いので(歴史といっても大半が植民地時代だったわけですから)、ここはパス。隣接する丘の上にはセント・ポール教会があるが、ひとまずこの丘の南側をぐるりと半周する道、「コタ通り(Jalan Kota)」の方へ足を進めることにした。

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《(上2枚)オランダ広場のそばにある復元された城壁》

こちらがコタ通り。道幅が非常に広いが自動車は殆ど通らず、他に車両といえばトライショーくらいしか入ってこないため、実質的に歩行者天国となっている。トゥン・タン・チェン・ロック通りやジョンカー・ストリートもこんな風にしてくれないと。

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スタダイスはスキップしたが、ひとつくらいは博物館にも入ってみたい…とのことで、折角イスラム圏に来ているのでコタ通り沿いの「ムラカ・イスラム博物館(Melaka Islamic Museum)」へ。カルトは勿論のこと、全ての宗教は私にとって唾棄すべき存在ではあるが、かといって人間社会の規範や文化を形成するにあたって大きな要素であることは認めざるを得ないわけだし、それらの理解のためには決して避けては通れない道。要するに個人の感覚とは完全に切り離された、客観的立場から見た教養としてならば興味津々ということである。

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《ムラカ・イスラム博物館》

入館料はRM2(50円)。館内は土足禁止なのがイスラムらしいところである。展示物はコーランにスルタン(君主)の豪華な衣装や装備品、イスラミックデザインの美術品など。RPG好きにとってはシャムシール(曲刀)の実物が見られたのも嬉しかったり。私を除けば見学者はゼロで、閉館時刻までまだ1時間くらいあるというのに早々とクローズの準備に入っていたのだが、私の姿を見るなり既に鍵を掛けたドアをもう一度開けて回ってくれた。静かな博物館というのは実に心地が良い。

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《(上3枚)ムラカ・イスラム博物館の中庭にて》

日本人にとっては世界三大宗教のうち最も馴染みが薄いイスラムではあるが、世界人口の5人に1人を占めるという規模の膨大さは、今後のイスラム圏の経済成長とアメリカ型資本主義の終焉に伴い、ますます影響力を増していくはず。私もこれからの旅で親しむ機会も増えるかもしれないが、それでなくともアジア唯一の先進国の良識ある市民としては最低限、「世界各地でテロを起こしているおっかない人達」という欧米視点の偏見からは脱却しておきたいところだ。ABCから学ぶのに良い入門書があるので、もしご興味があればということで推薦しておきます。

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ムラカ・イスラム博物館からコタ通りをはさんで反対側には広場があり、そこにはマレー鉄道の昔の車両が置かれていた。マラッカはマレー鉄道とは一切関わりのない街なのだが、ここはどうやら交通博物館らしく、航空機と共にあくまで見本という形で展示されているらしい。

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《(上2枚)マレー鉄道の機関車と客車》

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《プロペラ機》

時刻は午後5時過ぎ。今日は朝食以来何も口にしておらず、夕食までちょっと持たなそうだったため、セント・ポール教会が建つ丘のすぐ南に隣接する「メガモール」内のフードコートへ。マレーシア/インドネシアの焼き飯、「ナシ・ゴレン(Nasi Goreng)」でとりあえず空腹を満たしておく。今回の旅では様々な要因で食事の時間が不規則になってしまうことが多いのが困りものだ。ちなみにお値段は日本円で百数十円でした。

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《ナシ・ゴレン。えびせん付き》

次回はサンチャゴ砦から。

(2011.12.14)

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2012.05.25

マレーシア (3-6)マラッカ旧市街その1(白昼のチャイナタウンにて)

というわけでマラッカの旧市街探検に出発。下の2枚の写真はホテルの前を走るトゥン・タン・チェン・ロック通りで、先述のようにプラナカンの邸宅が多く残る風情のある通りなのだが、残念なことに交通量が多く歩道らしい歩道もないため、邸宅の美しい外観を眺めながらのんびり歩かせてはくれない。西向きの一方通行なので交通の流れ自体はスムーズなのだが、バイパス道路への誘導が上手くいっていないため、狭い通りに観光客と通過交通が錯綜するという状態に陥ってしまっている。チャイナタウンはマラッカで一、二を争う観光資源であるわけだし、ここは自動車に若干遠回りを強いることになったとしても、通過するだけの一般車の流入は制限すべきだろう。

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後述するようにチャイナタウンと銘打ちながら、実際は異民族が平和に共存するマレーシアを象徴するようなエリアなのだが、それでもやっぱり主流は華人たち。『Hotel Puri』の西隣には「永春会館」という華僑の集会所がある。永春とは現在の福建省泉州市の一地域のことで、かつて「海のシルクロード」の東の起点としてマルコ・ポーロの「東方見聞録」にも登場したほどの大港湾都市だったのだとか。土砂の堆積により港湾機能を喪失したのち、市民は活路を求めて東南アジアの各地に移り住んでいったらしいのだが、その末裔たちが同じく海上貿易の要衝地だったマラッカに根を張っているのも必然といえる。

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《永春会館・外観》

それにしてもこんな真昼間に屋外を歩き回るのは、4日前のバンコク寺院巡りの日以来。シャワー上がりにアスファルトからむせ返る匂いは、完全に真夏の夕立の後のそれである。

トゥン・タン・チェン・ロック通りから路地を介して一本北側の通りへ向かう。新年を祝う飾り付けがされていたが、2012年の旧正月は1月下旬でまだ一ヶ月以上も先。とはいえクリスマスだってフライングスタートは多いわけだしね。

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トゥン・タン・チェン・ロック通りの一本北を並行して走るのは、「ハン・ジュバッ通り(Jalan Hang Jebat)」。マレー語名よりも英語名の「ジョンカー・ストリート(Jonker Street)」の方で親しまれている。こちらも通り沿いにひたすらショップハウスが並び、ババ・ニョニャの伝統的な家具・調度品を扱うアンティークショップ街として有名である。豊富な商品のうち、商売に失敗したり時代に乗り遅れたりなどで凋落したプラナカンの長者が窮した末に売りに出したものも少なくないそうだ。有為転変は世の習い、華やかさだけではないプラナカンの足跡を伝えるもう一つの場所である。

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《(上2枚)ジョンカー・ストリートにて》

それはともかく、こちらの通りも東向きの一方通行で通過交通をさばいており、路肩に停まる車(駐車スペースに線が引かれていたので違法駐車では無さそう)が邪魔なうえに歩道も非常に狭く、散策を楽しもうにも興がそがれてしまう。こうして実際にツーリストのアクセシビリティの障害になっているだけでなく、印象面でも「所詮中進国の観光政策なんてこんなもの」と、マラッカの街だけでなくマレーシアという国そのものの沽券にも関わりかねないことなので、現状のまま放置せず真剣に対策に乗り出した方がいい。

この通り沿いの一角にこんな広場があり、そこには…

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唐突にこんな面妖な像が設置されている。どうやらマラッカ出身の伝説的なボディービルダーらしく、「ミスター・マラッカ」「ミスター・マレーシア」「ミスター・アジア」「ミスター・ユニバース」「マレーシアのボディービルダーの父」と、ありとあらゆる表現で賛辞が綴られている。建立した関係者達は至って大真面目なのだろうが、私にはどうしても2ちゃんねるに貼り付けられている皇太子殿下のAAにしか見えない。ちなみに知り合いにボディービルダーが一人いるが、体脂肪が極端に少ないために免疫機能が低く、しょっちゅう体調を崩しているとか。「過ぎたるは及ばざるが如し」、です。

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そんな“迷”所を訪ねつつ、更に北上して「カンポン・クリン・モスク(Masjid Kampung Kling)」へ。イスラム寺院ではあるが外観は東洋風(スマトラ様式)というユニークな設計で、ミナレットもパゴダ(仏塔)に似せて造られている。

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《カンポン・クリン・モスク(西側から)》

カンポン・クリン・モスクの入り口があるのがトコン通り(Jalan Tukang Emas)。わずか100mほどの間に中国寺院・イスラム寺院・ヒンドゥー寺院と3つの異なる宗教の寺院が共存しており、「ハーモニー通り」の別名がある。単に寺院が隣接しているだけでなく、あろうことかイスラム寺院の真ん前で堂々と禁忌の豚肉料理を販売したりと、長い歴史の中で培ってきた象徴に留まらない寛容さが垣間見られるのが特徴となっている。

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《トコン通り(ハーモニー・ストリート)》

モスクの内部を入り口から。3種の寺院いずれもがマレーシア最古のものだそうな。

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ハーモニー・ストリートを通り、オランダ広場に近づいたところで再びジョンカー・ストリートへ。ショップハウスを改装したレストランや土産物店が並び、狭い歩道に観光客がひしめき合っている。「マレーシアの京都」などと例えられることもある古都マラッカだが、ここはまるで嵐山の雑踏のよう。

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旧市街を東西に隔てるマラッカ川を渡る。ここから上流へ向けて往復するリバークルーズ船がひっきりなしに運航されており、私も今晩乗船することになる。

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《マラッカ川(上流方向)。中央に写っている船がリバークルーズ船》

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《マラッカ川(河口方向)》

次回はマラッカ旧市街のヘソ、オランダ広場から。

(2011.12.14)

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2012.05.22

マレーシア (3-5)ヘリテージホテル探訪

マラッカ編の初回なので、ごくごく簡単ではありますがマラッカの歩みについて。

マレーシアの歴史は、14世紀末にスマトラ島からマレー半島へ逃れてきた王族が興した王国を端緒としているが、その最初の王国が置かれたのがここマラッカの地。その後マラッカは現在の中近東地域から南アジア、そして極東を結ぶ「海のシルクロード」の中継点として大きく発展していくことになる。現在マレーシアがイスラム圏であるのも、このように草創期から海上貿易を通じてアラブとのつながりが非常に深かったことに由来している。

しかし16世紀初頭、ヨーロッパが大航海時代に入って間もなく、香辛料貿易による利益を独占しようと極東へ進出してきたポルトガルによってマラッカは占領され、マラッカ王国はこの地を追われることに。しかしその君臨も長くは続かず、17世紀の1641年に今度は覇権を競い合っていたオランダがポルトガルを駆逐し、約200年に渡ってオランダが植民地として支配することになる。19世紀にはイギリスがマレー半島全域を統治下に置いたことでまたしても帰属が変わり、1941年からの4年間は一時的に日本の占領も経験することになる。

このように絶えず世界史の荒波に揉まれ続けてきたマラッカが「マラヤ連邦」の一員として完全な独立を果たしたのは、たかだか半世紀前の1957年のこと。現在旧市街にはポルトガル・オランダ・イギリス統治時代の史跡が数多く残り、多民族国家であるマレーシアでも特に「文明・文化の交差点」としての特徴を色濃く反映する街として、2日前に訪れたジョージタウンと共にユネスコ世界遺産(文化遺産)に登録されている。

マラッカを語る上でもう一つ欠かせないのがプラナカン文化。15世紀頃から中国、当時の明より移住してきた華人男性と、現地のマレー人女性との婚姻関係との間で生まれた融合文化のことである。同義の別名として「ババ・ニョニャ」という言葉もあり(「ババ」は華人男性、「ニョニャ」はマレー人女性を指す)、マレー系にも中華系にも属さない固有の民族グループとして、今なお独自の文化を継承しているそうだ。シンガポール成立後にそちらへ渡ったプラナカンも多く、経済界でも一大勢力を築いているとか。

で、この『Hotel Puri』も、そのプラナカンが建てた家のひとつ。元々商才に長けた華人の末裔として、特に成功を収めた富豪たちがこの現在トゥン・タン・チェン・ロック通りと呼ばれる通り沿いにこぞって豪邸を建て、「ミリオネア・ロード」という別名も付いたほどらしい。詳しくはホテルのウェブサイトの解説文をご覧頂きたいが(→コチラ)、街へ出る前に少し、この文化財としても貴重なホテルの建物内を歩いてみることにした。

プラナカン建築は奥行きが非常に長いことが特徴だというのを前のエントリで書いたが、これはオランダ統治時代に間口の広さで税金の額が決められていたためなのだとか。この手の話は世界中でよくあることで、類例では建物の接地面積が税金額の基準だったなんてものもあるが(アルザスのコロンバージュなど)、所詮役人の浅知恵など市民の機智の前には無力だという好例である。下の写真はロビーの風景だが、建物内には随所に中庭が設けられ、採光にも十分に配慮した設計となっている。

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《ロビーにて。プラナカン文化とキリスト教文化であるクリスマスデコレーションのコラボ?》

ロビーの中庭から空を見上げて。建造当時は通気も兼ねていた為に吹きさらしだったが、エアコンが設置された現在ではガラスで塞がれ、天窓となっている。

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こちらは朝食会場の前にある池つきの中庭。建物の最奥部までは100mあるとのことで、後述する表通りの喧騒とはまるで別天地の感である。

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館内の一角にある、アンティークな家具や美術品が展示されたミニ博物館。プラナカンは華人とマレー系の混血とはいえやはり中国文化が色濃いが、例えば陶器を例に取るとパステルカラーの淡い色彩を多用したりと、さりげない部分に個性があるそうだ。

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もう午後4時なので、ホテル探訪もそこそこに街へ繰り出すことに。

(2011.12.14)

前のページへ:マレーシア (3-4)Road to Melaka(後編)

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