05/10/12 (1)平成の架橋合戦のゆくえは?~鞆の浦にて~
続いては瀬戸内シリーズと銘打ちまして、岡山県・広島県東部・香川県方面の小旅行記を何篇か。
2005年のとある秋の一日、青春18きっぷの秋バージョンとも呼べる『鉄道の日記念 JR西日本一日乗り放題きっぷ』で、広島県の鞆の浦と尾道へふらっと出掛けてみました。
最初の目的地・鞆の浦の玄関口は、JR山陽新幹線及び山陽本線の福山駅。大阪から延々と普通列車を乗り継いで来たので、朝早くに出発しても福山駅に到着したのは10時過ぎになりました。鞆の浦へは駅南口から鞆鉄バスの鞆の浦行きか鞆港行きで30分。日中15分間隔の頻発運転で便利です。
《福山駅・南口》
前半は芦田川、後半は燧灘に沿って県道22号線を南下し、《鞆の浦》バス停で下車(福山駅南口からの運賃は510円)。瀬戸内海の潮流の分かれ目に位置していたことから、天然の良港であることも相まって、古代から「潮待ち港」として繁栄していた港町です。また、1934年に瀬戸内海国立公園として日本で初めて国立公園に指定された地域でもあります。
《弁天島(手前)と仙酔島(奥)》
この町を代表する風景は、やはり円状に切り込んだ入り江のウォーターフロントでしょうか。入り江沿いのどこで写真を撮影したって、適当にシャッターを切ったとしてもそれなりに絵になるのはさすがと唸らざるを得ません。
鞆の浦は『崖の上のポニョ』のモチーフとなった町で(宮崎駿本人はそう明言していませんが、公然の事実となっています)、2008年の映画公開以来、観光客が激増しているのだとか。それまでは知る人ぞ知るような渋めの観光地だったはずですが、人の入りの増加は素直に朗報と呼べるのか、それとも招かれざる客まで呼び込んでしまう諸刃の剣なのか。
港に面して立つ常夜灯です。
港から内陸へ一歩入ると、こちらも近世のその姿を色濃く残す、優れた街並み景観となっています。
その町並みを高台から見下ろすのも楽しみの一つです。下の写真は医王寺のそばから。
このように観光資源としては間違いなくA級の町なのですが、江戸時代の区画もそのまま残っているために自動車の通行には支障をきたしており、現在のところ町を抜けるバイパス道が存在しないため、通過交通を処理する手段としての湾への架橋プランを巡って、推進派と反対派が一進一退の攻防を繰り広げています。おおむね生活の不利益を直接蒙っている地元住民が推進派、他県民や文化人などの「野次馬」が反対派――という勢力に分かれているようですが、土建屋さんの言い分はともかくとして、山側にトンネルを掘るなり海底トンネル(沈埋トンネル)を通すなりで簡単に解決できそうな気がするのは私だけではないはず。要するにお金さえあれば何とかなる問題で、実現する目のないオリンピック招致に盲進した挙句に百数十億をドブに捨てるバカ都知事もいれば、たかが数十億が工面できないばかりに日本の宝である伝統的景観が破壊されかねないのですから、お金の価値って何だろう?と思わず考え込んでしまいますね。ちなみに地図を見てみると、太い道路が湾を挟んだところでプッツリと切れており、架橋を前提で計画されていた事が一目瞭然です。数十年前ならば問答無用で橋を造っていたのかもしれませんが、こうして今や百家争鳴の議題にまで発展しているのですから、ポニョ効果を差し引いても景観に無頓着な日本人にしては大きな進歩と言えるのかもしれません。
《現代の交通量のキャパシティを大幅に超過している細い路地。鞆の浦のもう一つの顔です》
町並み散策のほか、遊覧船に乗船したり市営の渡船で仙酔島に渡ったりというプランもありますが、あまりそういう気になれなかったので、滞在1時間ほどで再び福山駅行きのバスに乗って鞆の浦を離れます。バスセンターの建物の中では、1954(昭和29)年まで福山駅~鞆の浦間に運行されていた鉄道線の写真と史料が展示されていました。そういう経緯もあって、鉄道路線が無いのに「トモテツグループ」を名乗っているわけですが、やはり箔付けになるからでしょうかね。
次回は尾道に向かいます。
(2005.10.12)
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