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2019.08.25

あいちトリエンナーレ2019 Part1【名古屋市美術館】

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 親愛なる読者の皆様。大変ご無沙汰しております。10~20代の時分よりは大幅に頻度は落ちたとはいえ、この頃も遠近問わずちょくちょく旅に出掛けてはいるのですが。最近は記事に起こす気力が減退してしまい、私生活において精神的に疲弊してネットへつなぐことすら負担に感じ、気づけば丸1年も放置してしまいました。放置期間中もアクセスカウンターはコンスタントに回っており、RSSリーダーに登録してくださっている方(→チェックできるサイト)も沢山いらっしゃるようで、誠に心苦しい限りです。ご期待に沿えず申し訳ございません。


 というわけで生存報告も兼ねまして、またローペースながら更新を再開していくことにします。まずは例の像の件でこの手の芸術祭としては異例の注目を集めることになった、『あいちトリエンナーレ』(2019年開催)の訪問記から。当初はまた電脳井戸端会議のネタが投下されおったわー、と、いつものように静観するつもりだったのですが、作家の瀬川深さんの訪問レポートを読んでいたら俄かに興味が湧いてきまして。私が訪れた日には既に『表現の不自由展・その後』のコーナーは公開が中止されており、さらに検閲への抗議や連帯を表明する一部の作家が自身の作品を引き上げるという事態にまで発展していましたが、今回は芸術祭そのものが面白そうだったので訪問を止めるほどのクリティカルな事態だとは考えず、予定どおり名古屋まで足を運ぶことにしたのでした。大阪近郊からならば近いものですしね。私はアートの批評者としての素養があるわけではないので瀬川さんのように端正な文章は書けず、甚だ取り留めのない内容になるとは思いますが、ある意味で“風評被害”を被ってしまったイベントの実態が果たしてどんなものだったのか……というのが少しでも伝われば幸いです。



 午前9時、前乗りして宿泊していた栄中心部のホテルを引き払い、それから歩くこと約15分。白川公園内にある『名古屋市美術館』へやって来ました。本トリエンナーレで最も規模の大きい会場は『愛知芸術文化センター』となりますが、市美の方が開館時刻が30分早いため、名古屋市美術館→愛知芸術文化センター、その後は四間道・円頓寺エリアの順に回ることに。豊田市の会場はパスしてしまったものの、名古屋市内の3エリアはきっちり制覇するプランです。市美の窓口で購入したのは、大人個人1,600円の1DAYパス。これで本日中ならば4エリアすべての展示を見学することができます(※一部、料金が別途必要なプログラムもあり)。


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▲名古屋市美術館・外観


 お盆の連休が明けて最初の開館日だったためか、各会場には新聞・テレビの取材クルーの姿が。ここ市美にも某全国紙の記者とカメラマンが来ていました。偏見かもしれませんが、例えジェントルに振舞ったところでこの業界の人たちの言動の端々から匂い立つヤクザ臭、どう取り繕っても隠し切れませんね……。棒立ちしているだけで威圧的に見えますし。


 まもなく開館、という時刻になってスタッフさんがゴミ箱を設置しにやって来ましたが、これ自体が「アフリカ:西洋のゴミ袋」というタイトルの展示作品なのだとか。もちろん実際に使うことができ、ゴミが溜まっていけばいくほど作品に込めたメッセージが浮き彫りになるという趣向です。扱うテーマはあくまで深刻なのでしょうが、入る前から現代美術らしいユーモアとウィットで来場者を和ませてくれます。


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 展示作品は4エリア共通で映像作品以外は撮影自由。ウェブサイト・BlogやSNSへもじゃんじゃんアップしてくださいとのことです。というわけでカメラ片手にパチパチ撮り歩くつもりだったのですが―― 早くも2つ目の部屋からして照明が落とされて真っ暗となっており。どうやらこれも検閲への抗議として作家みずからの意思による事実上の展示拒否、ということになっている模様です。展示目録には載っているのに記憶には一切残っていないという、一瞬自分の記憶障害を疑ってしまうような奇妙な体験は、この後も幾度となく続くことになります。
【追記】この部分については記憶があやふやなので、取り消し線を追加しました。


 日本統治時代の台湾に於いて現地の人々を“皇民化”するべく設置された「国民道場」で行われていた訓練……というか、現代の自己啓発セミナーすらも裸足で残らず逃げ出しそうな異様な洗脳教育の様子を収めたフィルム[無情/藤井光]に日本人の深い業を感じつつ(知ってたけど)、この会場では最大となる隣の部屋へ。下の写真はモニカ・メイヤーの「The Clothesline」という作品で、日常にありふれているが故に埋もれてしまうセクハラ・性暴力の脅威を、経験者によるコメントの集合体として可視化しようという試みなのですが。


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 こちらもこの通り、展示の核となるメッセージカードは撤去された後でした。引きちぎられ、床に打ち捨てられた白紙は何を語る。


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 なお、個人的な意見として女性差別への対策を述べさせていただくと…。まずは人権侵害の一形態に過ぎない「女性」差別を、(ポリティカルコレクトネスや法整備によって庇護を受けるのが目的の)ネガティブリストへ載せるという選別をやめること。このリストに掲載されるには多大な政治力を行使することが不可避ですから、自らの尊厳を守りたいがゆえに声なき声しか上げられない者へ「告白」を要求し、更には魑魅魍魎たる世間の同情を得なければならないという、傷を癒すために傷を抉るかのような倒錯した状況を作り出すことになっているわけです。そして、社会生活を送る過程で関わる人間を能動的に選択できるようにすること。文明社会では言論の自由・表現の自由とともに内心の自由も保証されている、少なくともそういう建前はあるわけで、人の口に戸は立てられぬというか差別的な思想は実際に犯罪行為にまで及ぶことはなくとも暗に明に対人関係の態度へ表れてしまうのは仕方がない、そこまで踏み込むとなるとこれは新たな思想統制と化してしまうのでは? という危惧を抱いてしまうのです。結局のところ差別のない世界というのは、その機能を維持するために不可欠なロールが構成員全員に与えられている共同体でしか成立し得ないのでは、というのが私の考えです。じゃあそんな環境を生むためにはどうすればいいのかというと…… やはり私の乏しい想像力では、ベーシックインカムの導入くらいしか思いつかないんですよねぇ……。何れにしても世の中の99%の問題はお金「だけ」で解決できる、というのは、一生変わらない私の定見ではあります。


 こういった政治色一色の作品の隣には、純粋に見て楽しむための作品[五重塔/壷 ほか/桝本佳子]が。容れ物としての機能性を完全に捨てて装飾デザインに全振りしており、陶器でこんなことが出来るのかと驚愕必至。アイデアにしろそれを具現化する高度な技巧にしろ、只々舌を巻かずにはいられません。私と同い年の作家さんだそうで。


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 2Fへ。壁に貼り付けられた大量の書簡に圧倒される「サイコマジック:アレハンドロ・ホドロフスキーへの手紙「アレハンドロ・ホドロフスキーのソーシャル・サイコマジック」」を瞥見し、続いてこちら↓の「1996」というタイトルの作品へ。作者の青木美紅さんは人工授精によって生を受けた方ということで、その事実を母親に知らされて以降、「選択された生」にまつわる作品に取り組み続けているそうです。こちらの作品のモチーフのひとつである羊も、青木さんと同じく1996年に誕生したクローン羊『ドリー』がモデル。


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 生命倫理に関して私も考えてみると、自分はかなりラディカル寄りな思想を持っており、デザイナーベイビー上等、遺伝子組み換えゲノム編集バッチ来い的なスタンスでありまして。仮に人間の無垢性がそのまま受け容れられる社会であるならばこういった議論にも意義があるのでしょうが、実際には容姿の美醜・各種能力の高低・障碍の有無、そして教育という名の洗脳システム――と、ゆりかごから墓場まで絶え間のない「否定」にさらされる運命。とすればその改造がアプリオリであるかアポステリオリであるかの相違しかないわけで、加えて前者にはエビデンスという屈強な番人が常に睨みを利かせているのに対し、後者にはオーソライズされた“検査官”など誰もいないのです、恐ろしいことに。そういった社会構造に頬かむりを決め込みながらの反対は空虚かつ無益と断ずるほかないでしょう。あとカトリック、お前らは発言を慎め。単なる利権団体の分際でウエメセでグダグダ言ってると、会議室から蹴り出すぞ(笑)。


 あとは2種の映像作品をチラッと見て、2Fを離れます。もう一つ、こちら↓の上品で紳士的なフラッシュモブともいえるパフォーマンスがこのフロアで行われることになっていたようですが、出演者の姿が無かったのでやはりこちらも……


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 トリエンナーレの会場部分については30分ほどで見終えましたが、B1Fにはモディリアーニ・シャガール・藤田嗣治などといった巨匠の作品が常設展示されており、1DAYパスがあれば追加料金なしで見学できるとのことなのでこちらにも立ち寄りました。普段の芸術鑑賞と違って今日はこれで終わりではなく、まだ3会場のうちの1つを消化したに過ぎないんですよね。体力が持つか少し心配ではあるものの、アート尽くしの一日はまだ始まったばかりです。


 次回は愛知芸術文化センター編。


(本文中、一部敬称略)


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