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2019.08.27

あいちトリエンナーレ2019 Part2【愛知芸術文化センターI】

 ホテルからの道のりをほぼそのままなぞる形で、歩いて栄へ戻ります。2020年の全面リニューアルへ向けて工事がたけなわの久屋大通公園を抜けると、オアシス21前で表現の不自由展の再開を求めて野良パフォーマンスを行う人達がおられました。私に関しては少女像はどうでも良くて同展の趣旨に興味を惹かれただけなのですが、とはいえ利害は完全に一致しているわけなので心の中で賛同の姿勢を示しておきます。


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 愛知芸術文化センター内、8F・10F『愛知県美術館』が本トリエンナーレ最大の展示エリア。まずは順路に沿って10Fの展示を見て回ることにします。私が最後に名古屋へ遊びに来た5年前、リニア・鉄道館帰りに点描画家の展覧会を見に訪れたのがまさにこのフロアでした。やはり今回の訪問、運命の糸に操られていたのでしょうかね。


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▲愛知芸術文化センター・外観

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▲10Fの展示室入口


 こちらはエキソニモという日本人アートユニットによる「The Kiss」という作品。


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 結論から述べておくと、この会場に関しては先に見てきた名古屋市美術館ほどに「刺さる」作品はあまり無かったので、記事の方も淡白気味に。こちらでも展示が歯抜け状態になっているのは相変わらずですが。


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▲LA FIESTA #latinosinjapan/レジーナ・ホセ・ガリンド(一時展示中止)


 今年のあいちトリエンナーレのメインビジュアルに採用されている、「孤独のボキャブラリー」(ウーゴ・ロンディノーネ)です。こちらもひょっとしたら展示が引き上げられるのでは…?という噂もあったのですが、訪問日には無事に観覧することができてホッ。


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 ちょうど私がこのフロアにいる間、夏休みを使った校外学習なのでしょう、制服姿の高校生の団体がボランティアガイドに引率されて見学を行っていました。共学校でしたが、やはりこんな所へ好んで来るくらいですから皆さん行儀がよくて賢そう。この部屋での出来事ですが、この種のガイドの常として「あなたはこの作品についてどのような解釈をしますか?」という質問があり、それに一人の女の子が当意即妙な回答を返したらしく(←発言の冒頭しか聞いていない)、同伴の生徒たちから「おおーーっ!!」というどよめきが起こるなど。しまった… 傍で聞き耳を立てておけばよかった…。こういう瑞々しい感性を目の当たりにする度に、自分のそれも加齢のせいにせず磨き続けなければ、せめて錆び付かないようにしなければ――と、襟を正します。


 クラウディア・マルティネス・ガライの作品も展示一時中止中なのでスルーし、下の写真の「Decoy-walking」(村山悟郎)へ。作品タイトルの通り、コンピューターによる人間の歩き方の特徴の認識・分析をいかに欺くのか、という実験の様子が展示になっています。このすぐ後にも共通項のあるテーマの作品がありましたが、こういった現在進行形で“進歩”するテクノロジーと倫理のコンフリクト、誰もが抱きながらも上手く言語化できない違和感や底気味悪さを一つの解釈のもとに解体・再結合して目に見える形で提示する―― これこそが今を生きる私たちに寄り添う現代美術の真骨頂であり、「ゲージュツなんて一体何の役に立つの?」的な愚問をなで斬りにするだけのパワーがあるのでは……と、思うことしきりです。


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 続いて「抽象・家族」(田中功起)へ。家族がテーマですか……。2010年代のニッポンではどうしてもこのキーワードからの連想のトップが「家父長制」や「(経済的)連帯責任」など、紐帯そのものに色はないはずなのにひたすらネガティブな印象ばかりが浮かんでくるもので。いや、私や私の周囲の家族はみな円満ではあるんですけれどね。嫌いな近親者は有難いことにみな早死にしましたし。これだけ家族の呪縛に苦しんでいる人々が(ネットが発達した時代になって漸く可視化されるようになった)怨嗟の声を上げ続けている中で、テーマそのものが周回遅れなような気がして。せっかくの力作を前に身も蓋もないことを言ってしまいますが、Part1でも述べたように家族に起因する「と刷り込まれている/ポジショントークの発話者によってそう思わされている」種々の問題も、お金がきれいさっぱり解決してくれるはず。抑々生殖の手段が男女間のセックスに限定されない、親子間で面識や遺伝情報の継承すらないケースも存在する現代において、人類誕生以来ほぼアップデートされていないアナクロな概念に固執することが滑稽であり、中国あたりを震源地としてそう遠くない将来に瓦解へと向かっていくのではないでしょうか。そういった意味では入口パネルの某思想家氏による家族の定義も蛇足だよ、と。


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 あまりよくない意味でちょっと毛色が違うかな、と感じたのは、「ラストワーズ/タイプトレース」。数十人の被験者が10分という制限時間のなかでキーボードを打って遺書をしたためる工程をリアルタイムで記録。文字入力や挿入・削除、その「間」のすべてが目の前のモニターに再現されています。余程自己愛傾向が強くない限りはラブレターをわざわざ公開する人がいないように、究極の私信ともいえる遺書をパブリックな空間にさらけ出すというのは、その文に込める想いが真摯であればあるほどグロテスクさが増幅していくように感じますし、なんかこの企画自体が悪趣味だなぁ、と。これも表現の自由の一側面であるとはいえ、個人的に不快感・嫌悪感が大きかったです。


 さて、10Fの私的ハイライトはこちらでしょうかね。ヘザー・デューイ=ハグボーグ氏による「Stranger Visions, Dublin: Sample 6」。路上に捨てられた誰のものだか判らないタバコの吸い殻やチューインガムからDNAを抽出し、その落とし主の顔かたちを再現してみようという試みです。なんとなく不気味なのは犯罪捜査で使われるモンタージュ写真や似顔絵と同じですからこれに関しては違和感はないのですが、当然のことながらその信憑性は門外漢からしても眉唾モノ、寧ろ逆に正確であったならばあらゆる生体情報が筒抜けというディストピア的な未来がすでに到来しているということになるわけで。とはいえGoogleへ毎日のように思想・対人関係・社会的属性・習慣・嗜好といったプライバシー情報を差し出しているという状況を相対化してみれば、何を今更…と、炭鉱のカナリアもあきれて鳴き止む勢いでもあり。既に公共の場からDNAを除去するスプレーも市販されているそうで、ひょっとしたら倫理の観点から手を下すまでもなく、ビジネスの物語の範疇で決着がついてしまうのかもしれません。兎にも角にも、現実はフィクションなんかよりもずっと面白いですね。


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 あまり左脳ばかり使っていても疲れるばかりなので、「Untitled(Static)」(シール・フロイヤー)や「ガラスドローイング」(文谷有佳里)といった作品はよき清涼剤に。まんまピタゴラスイッチの「その後を、想像する」(菅俊一)は、この会場にも多く訪れていた小さな子供たちにも好評のようでした。知的刺激のシャワーを浴びる彼ら・彼女らの姿を眺めながら、ああ、こんな環境が与えられるか否かでもう人生の分岐は始まっているんだよな……と、他人事ながらもメランコリーな気分に。


 伊藤ガビン氏の映像作品は定員制のために待ち時間があったのでパスし、展示室入口を出て展望回廊へ立ち寄ることに。ここは愛知芸術文化センター前のペデストリアンデッキに描かれた「ドローンの影」(ジェームズ・ブライドル)というタイトルの、実在する無人偵察機の実物大シルエットを空から眺めるのに最適なポイント。私も先ほどここを通ったのですが、地面にこんな絵が描かれていたとは全然気が付かなかったです。この機種については非武装とのことですが、遠隔地の安全圏からジョイスティック一本で人が殺せるというSFを超越した現実を語るに、身の毛がよだつという表現すら生ぬるいくらいです。


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 続いては8Fへ向かうことにします。(続く)


(本文中、一部敬称略)


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