22/10/05 (4)岡崎・八丁蔵通り~岡崎公園
名鉄岡崎公園前駅(下の写真左奥)から岡崎の城下町散策をスタート。愛知環状鉄道の中岡崎駅が隣接し(同右手前)、ロータリーも共有しています。
最初の目的地「八丁蔵通り」は駅から歩いてすぐ。約170メートルの通りの端から端まで、東側に黒塀囲いの味噌蔵が途切れなく並んでいるというスポットです。通りを歩けば味噌の香ばしい香りが──という平時の風物に関しては、マスク生活中ゆえ今回は体感できず。
八丁味噌(三州味噌とも)を伝統的な製法で醸造する蔵としては2社だけ残っている、「カクキュー八丁味噌」と「まるや八丁味噌」。
2社が向かい合う通りは旧東海道なので、西の突き当たりまで歩いていくとこんな道標も。
そのうち「まるや八丁味噌」の蔵の方は事前予約なしでも見学が可能なため、ガイドツアー形式は好みではないものの偶々出発の5分前に到着できたこともあり、予定外でしたが乗っかっていくことに。
古い物だと150年くらい前の木桶(下1・2枚目の写真)と、重石を円錐状に3トン積み上げて二夏二冬かけ発酵・熟成中の味噌(同4・5枚目)。同行の御夫婦(参加者は私を足してこの3名のみ)が頻繁に質問をしており、テンプレに沿ったガイドよりもポロッと引き出された「伝統的な製法と近代的な製法では、普通の人ならば味の違いはまず判らない(まあそうでしょうねぇ)」や、「原料の大豆は輸入品も使用している(拘るべきは製法ではなく寧ろこちらの方では?)」といった“本音”の方が印象に残ったという。最近はAIの発達によって創作・クリエイティブ分野が大波に洗われつつありますが、伝統の、言い換えれば旧来のメソッドが潰えるのは偏に技術の進歩により非合理なものが淘汰された結果であって、差別化を図るにしてもその差を主体的に見分ける能力のないマジョリティ相手の商売──趣味や技術伝承ならば非合理であろうとプレイヤーの勝手ですんなり決着すれど、銭金の話だからこそ紛糾しているのでしょう?──ならば歪かつ欺瞞に満ちたものとなるのは必然ですからね。だからこそブランドや商標にまつわる疑似問題(八丁味噌もGI登録の件で揉めていますけど)が引きも切らないわけでして。まったくもう、数多の先人とほんの一握りどころか一匙の現代人の偉業にフリーライドする21世紀の人類として、素直にコモディティ化したあれやこれやを感謝しながら享受しておけば宜しいのでは。くだらない意地を張ったところで、所詮は違いを「分からずに済む」マジョリティなんですから。閑話休題。
約40分のガイドツアーはお土産売り場にて解散となりましたが、いたずらに荷物を増やせないのが電車の旅の短所。ちょっぴり後ろ髪を引かれつつ手ぶらで蔵を後にし、岡崎公園へ向かいます。
八丁味噌が作られるこの界隈の地名「八帖町(嘗ては八丁村)」の由来は岡崎城から西へ8丁(=約872メートル)の距離に位置していることですが、岡崎城周辺の旧東海道は城郭の防衛上の理由で「二十七曲り」と呼ばれる屈曲を繰り返しており、その名残で現代でも八帖町から真正面に見える城まで一直線に進むことはできません。
その旧東海道は相当北まで迂回して東(江戸方面)へ向かいますが、令和のルートはクランクを一回通過するのみですぐに岡崎公園へ。
西側のお堀代わりの伊賀川を渡って敷地内(城郭内)へ入ります。すぐ北側を東西に走るのが、下3枚目の写真奥の国道1号線。
岡崎城は徳川家康生誕の地です。実は来年の大河のテーマが家康だということを、先ほどの味噌蔵ガイドツアーの中で初めて知ったという。とはいえ同行の熟年の御夫婦(どことなくハイブローな感じでした)も初耳だったので、テレビを見ない人というのは中高年層でも普通にありふれているようです。下の写真は家康の産湯を汲んだとの言い伝えのある井戸。
天守閣は戦後に再建されたものですが、こちらの「持仏堂曲輪腰巻石垣」のように江戸時代前期に築かれて改修を受けぬまま現在まで残るような貴重な史跡もあります。
この先には江戸期の城に石造りのアーチ橋が架かるという、皇居の二重橋を思わせるちょっと不思議な景観も。
岡崎城の総面積は江戸城・姫路城・大坂城or熊本城に次ぐ国内第4位の規模という説も存在するだけあり、予習した通りに石垣やお堀といった江戸期の史跡はたいへん見応えがありました。
天守閣の入口前。こちらは大河放映を前にリニューアル工事のため一時休館中となっています。ちなみに東幡豆の海岸では回復の兆しを見せていた天気も、その後はまた緩やかな下り坂に。天気予報からすると降雨が全く無いだけで充分有難いですが。
その天守をバックに龍城神社(たつきじんじゃ)を。家康が産まれた朝に龍が昇天してウンタラカンタラという伝説の残る、もうこの辺り大河の初回でバリバリのCGを伴って登場する予感満々です。
特に散策コースは決めていませんでしたが、それなりに隈なく巡ったので大きな見逃しは無かったはず。なお、上記の石橋「廊下橋」(下9枚目の写真)は、江戸時代は屋根付きの橋だったものを1920(大正9)年に改修したのだそうです。
下の写真の広場で今回の散策はフィニッシュ。乙川の畔へ出るべく地図アプリを起動してその場でクルクル回転していると、たぶん稲姫(本多忠勝の娘で戦国時代の女武者の一人)に扮しているのでしょう、観光ガイドの若い女性(とても可愛い…いや、でらべっぴんな方でした)が声を掛けてきました。当然真面目に案内をしてくれるのですが、名古屋→尾張、日本→日ノ本などと態々読み替えるまでになりきりが徹底しています。今日はトリエンナーレを見に来たついでに立ち寄って…って、横文字使っても良かったのかな(笑)。お姫様曰く、今日は平日とはいえ全っっっ然人が居ないらしく、来年の人出を考えると(大河絡みに限っては皮算用とはとても…)城内をゆったりと見て回るには最上の一日だったようです。
こちらの『グレート家康公「葵」武将隊』、平日は観光案内と記念撮影、土日祝日は演武を披露しているとのことで、パンフレットも頂いてきました。島原城で島原城七万石武将隊と出会った話をしたところ、先日同じ九州は熊本からゲストで『熊本城おもてなし武将隊』が来ていたそうで。今年の7月に行った際には演武披露の時間にはタッチの差で間に合わなかったみたいでしたが。
私「やっぱり全国レベルで連携なさっているんですねぇ」姫「めっちゃしてます!(ニッコリ)」
教えて頂いたとおりの道を辿って下城し、これも南側の壕代わりだった乙川(おとがわ)の北岸へ。帰りは岡崎公園前駅ではなく、快速特急・特急が停車する市の中心駅・東岡崎駅へ向かいます(※JR・愛環の岡崎駅は南へ3km離れた別の地区に所在)。岡崎公園前駅よりは若干遠いものの、ほぼ全区間乙川沿いの開放感のある道が続くので、これはこれで乙なものです。乙川だけに。
桜城橋という、一昨年3月に開通したばかりの人道橋兼橋上公園を渡って南岸へ。岡崎市は文教都市としても知られているそうですが、こういった景観を目の当たりにすると成る程、と思えてきます。ほんの短い滞在でしたが雰囲気の好ましい街でしたね、上記の稲姫ボーナスを含めて。今回は時間がなくスキップしましたが、美術館系の施設も興味深いのでチャンスがあればまた。
河岸へ出たポイントからゆっくり歩いて15分、東岡崎駅に到着。改築が決まっており予定では再来年度に解体が始まるらしい北口の駅ビルは、(駅施設としては)現役なのが信じ難いほどの廃墟じみた外観です。実害がないだけ今朝の清潔感の無い駅トイレよりはずっとマシですが、名鉄ってホント、色々な意味で貧しい会社だなと。
時刻は15時50分。日の入りまではまだ1時間40分あり“アノ路線”まで到達するには十分な時間なので、本日もやっぱり乗り潰しで締めるとしましょうか。(次回へ続きます)
(2022.10.05)
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