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2023.04.11

23/03/20 (5)広川町広地区

 那耆大橋(なぎおおはし)で広川(ひろかわ)を渡った先がもう広川町(ひろがわちょう)。船の通過のために橋の高さをかなり取ってあり、ここからの眺めはなかなか良いです。


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 南詰は役場前。移転前の湯浅町役場までの道のりは1キロもないという近さです。人口6,500人余りという小さな町ではあるものの(但し町域の面積は湯浅町の3倍以上)、1997年竣工の綺麗な庁舎が建っていました。


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 今回は時間と訪問日(曜日)の都合でじっくり学ぶことは出来なかったのですが、この地域では濱口梧陵〔はまぐち ごりょう/1820-1885〕という人物(ヤマサ醤油の七代目当主で和歌山県の要職を歴任した地元の名士)が過去に襲来した津波での減災において多大な功績を残したとのこと。下の写真は「稲むらの火」の名で語り継がれる減災エピソードの後に海沿いに築かれた「広村堤防」の一部(役場付近)です。


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 いったん内陸方向へ。こちらの広川町広地区にも、湯浅ほどまとまった数ではないものの商家の邸宅が残っています。下の写真は江戸時代から製網業を営んでいたという「旧戸田家住宅」。


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 小さな小さな商店街も。やはり湯浅とは別に独立した商圏はある模様です。


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 すぐ先には物販・飲食施設の「道あかり」と、濱口梧陵記念館および津波防災教育センターで構成される「稲むらの火の館」があり、駐車場を備える観光の拠点となっています。ちなみに上記の稲むらの火とは、1854(安政元)年の安政南海地震(寅の大変とも)により大津波が発生した折、濱口梧陵が暗闇のなか藁の山(=稲むら)を燃やして高台への避難経路を示し、村人の大多数の命を救ったという史実のこと。後に脚色を加えられたものが戦中前後の教科書の題材となるなど、この物語は津波防災・減災啓発として全国で、更には環太平洋地域を中心とする国外においても広く知られるようになったそうです。なお、文化施設の常としてきょう月曜日は双方ともに休館日。とはいえこの後の予定を考慮するとゆっくり立ち寄るほどの時間は無さそうでしたが。


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 濱口梧陵とともに上の広村堤防の築造に貢献した濱口吉右衛門家の本宅、「濱口家住宅」。普段は非公開となっていますが、写真で見たところ大変豪奢な邸宅のようです。


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 そして海岸へ。濱口梧陵が私財を投じて築造した堤防は高さ5m、根幅20m、天幅2m、延長600mという規模のもの。安政南海地震の92年後、1946(昭和21)年に起こった昭和南海地震では波高が4mということもあり実際に津波被害を軽減するという役割を果たしたそうですが、3.11をリアルタイムで目の当たりにした自分は、(高さ5m…ううむ……)と、所詮は他人事でしかないとはいえ難しい顔になってしまいますね。


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▲(2枚)広村堤防と防潮扉

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▲(2枚)それと直交する現代の防潮堤・防潮扉


 濱口梧陵の偉業を称える「感恩碑」(下1枚目の写真)と、広港の風景(同2枚目)です。


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 広村堤防の南側は見事な松林になっています。せっかく紀州まで来ましたが、今日の散歩ではこれで海は見納めでしょうか。


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 堤防の終端、こちらも濱口梧陵が設立に関わったという私塾、「耐久社」。独特の名前は安政南海地震の被災後に再建された際に永続を願って名付けられたもので、現在は耐久中学校(耐久社はこの学校の敷地内に所在/通常は非公開)・耐久高等学校(隣の湯浅町内に所在)にその名称が受け継がれています。


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 すぐ南隣、何かの御伽噺にでも出てきそうな佇まいの教会。


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 ほかにも濱口梧陵ゆかりの史跡が近隣に点在していますが徒歩で周るにはちょっと遠かったので、最後に南から北まで広村堤防を踏破しながら、ぼちぼち湯浅駅へ帰ることにしました。下の写真は役場南の防潮堤に描かれている、稲むらの火の壁画です。


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 広川河口の船だまり(左奥が那耆大橋)を通過し、


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 那耆大橋の一本上流側、広橋を渡って湯浅町内へ戻ります。湯浅でこの季節に獲れる魚にシロウオというものがあり(シラウオとは別種の魚)、ちょうど前日の日曜日にシロウオまつりが開催されたところでした。まあ、町内を散策するのには祭りで混雑しているよりも今日のように静かな方がずっといいですけれど。食材としてのシロウオはみんな大好き生しらすとは違ってどうも踊り食いが基本らしいので、ヨソモノにとっては寄生虫など衛生上の理由も含めて相当ハードルが高そうですが。


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 商店街を抜けて。上の写真のシロウオ漁は、街灯の店名看板にイラストが添えられるほどの当地の名物となっています。


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 ランチ後は約1時間半歩き回って、湯浅駅に到着。なお、広川町内にも「広川ビーチ」という駅があるのですが、町の中心部からは離れており、ついでにビーチからもそれほど近いわけではないという立地。実質的に湯浅駅が広川町の代表駅を兼ねている形です。


 駅に到着した時点で和歌山方面行きの普通電車は出て行ったばかり。次の電車は約1時間後の15時52分発です。以前は閑散時間帯でも御坊まで毎時2本が確保されていたのですが、現在の同時間帯は原則的に2本に1本が手前の箕島(有田市の中心駅)で折り返すパターンとなっています。きのくに線沿線に於ける和歌山市の10%通勤・通学圏(最も一般的な解釈での和歌山都市圏)が海南市・有田市の2市なので、現行のダイヤはその流動に即したものということでしょう。幸いにも今回は ①湯浅に停車する15時16分発の特急がある・②J-WESTチケットレス390が使える という条件が重なったため、普通電車を待つことなく駒を進められることに。とはいえ5月には旧駅舎を使った施設がオープン予定なので、仮に待ったとしても待合室で無為に過ごす必要はないでしょうね。


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 <くろしお24号>に乗車します。下車駅の海南までは26.6km、乗車時間は23分。JR他社には25km以下や30km以下といった短距離用の自由席特急料金が設定されている区間があるもののJR西日本管内には存在しない(50km以下が最低単位)ので、こういう機会がなければなかなかやらない乗り方です。短時間乗車なので座席のポジションに拘りはありませんが、一応往路とは逆のA席を指定しておきました。使用車両は北陸新幹線金沢開業時に余剰となった元<しらさぎ>の289系(※直流専用化改造時に形式を683系から変更)。287系と乗り比べてやはり681・683系世代がアコモデーションの水準におけるピークだな、と再認識しましたが、それはともかくこの編成、洗浄が不十分なのか窓が白く汚れており、観光路線に投入される車両にあるまじき状態となっているのが何とも…。JRWに限ると以前には播但線の103系や大和路快速の221系でこのような状態の編成に当たりましたが、乗車中はこればかりに気を取られ、車番を控えるのを忘れたほどでした。JR北海道のように付着する氷雪やポリカーボネートの経年劣化が理由という特殊な事情もないですし、これはちょっと、ね。


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 次回はこちらも19年ぶりという黒江へ向かいます。

(2023.03.20)

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